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宣伝や演出活動は、それ自体の楽しさが半分。

 

残りの半分は、おれの音楽の良さに気付けない、阿呆の為にやってる。

 

 

 

アー写、歌詞カード、ジャケットデザイン、ホームページ、グッズ、PV、文章

etc...

  

 

 

 

これは音楽をちゃんと聴いてもらうまでの話だ。

 

 

 

 

これから色んな宣伝や演出を行っていく予定であるので。

 

 

 

11月末のスタートに対する予告と

 

その意気込みでもある。

 

 

 


 

まずは演出の話。

 

 

 

道端にそっと置かれた出来たての二郎系ラーメンがあったとしよう。

 (設定やばい)

 

 

その二郎系ラーメンがどんなに名店三田本店に近い様相だったとしても、お椀を担ぎ、拾い食いをするやつはまず居ないだろう。

 

 

 

なぜ?

 

 

まずは理由が不明だ。

なぜここに二郎系ラーメンが置いてあるのか。

 

 

 

総じて怪しい。

 

 

 

なぜ怪しいのか。

 

 

出所が分からないからだ。

出所が分からないから、信用が出来ない。

 

 

信用ができないものは、食えない。

 

 

 

例えば、その路上の二郎系ラーメンに一言メッセージが添えてあったとしよう。

 

 

もやしこんもりのラーメンの上にお箸。

横にはお冷。

 

手前にペラ紙が一枚おいてある。

  

 

 

「ご自由にお召し上がり下さい。名前●●」

 

 

 

 

 

うん。

 

  

これでも誰も食わないだろう。

  

路上だし人目も衛生面も気になる。

 

 

 

ツイッターでいうとこの、一言メッセージと音源のURLがリツイートされてきた状態がこれ。

 

無名ミュージシャンの場合、だいたい同じくらいの信用度だと思う。 

つまりは演出が出来ていない。 

 

 

 

 

これは極端な例だが、  信用されるかどうかについては、

その演出によるところが大きいように思う。

 

 

 

食べ物屋でも、なにか物品を売る販売店においても、店を構えていることも一つの演出であり信用に繋がる。

 

 

店舗の存在してないWEBショップで買うより、店舗も存在してるWEBショップで買う方がなんだか信用できる。

 

 

 

ちゃんとした店舗で販売され、作る人、もしくはスタッフの顔が見えている。

 

 

欲を言えば聞いたことある名前の店舗で、

数人でも客が入ってるとさらに好ましい。 

 

 

 

ニューヨークで、一流の腕を持つバイオリニストが一流の楽器を使い、

わざと汚い格好をして地下鉄で演奏したが人々は足を止めなかった。

という話は有名は話だ。

 

 

この話がデマかデマじゃないかは差し置いても、

まぁ結果は同じようなもんだろうと思う。

 

 

地下鉄での聴衆意識は、単純な音楽的好みと、

音楽どころでは無い外的要因と、

圧倒的なのが「まさかこんなとこに凄い音楽を演奏する人がいるわけ無い」という意識だろう。

 

 

「まさかこんなとこに凄い音楽を演奏する人がいるわけ無い」

 

という意識の相手に対し、それを覆す作業が演出。

 

クラシック音楽家らしく、場所を変えることも必要かもしれない。

 

 

それがちゃんと出来ないと、ちゃんと聴いてさえもらえないのだ。 

 

 

 

 

ラーメンにおける演出。

 

クラシック演奏家における演出。

 

 

 

それぞれがそれぞれに異なる。

 

 

 

ここまで言っておいてアレだが、

二郎系ラーメンの店内は、けっこうな割合で汚い。

 

 

演出失敗。

かと思いきや。

 

 

その店内のボロボロさこそが一つの演出となっている。

 

そんな場合もある。

 

 

その辺は好みだから、無理はしちゃいけない。

 

 

 

何か物品や技術に値段を付けて売りたいのなら、

それに見合った演出方法を考えなければならない。

 

 

 

ほっといてもモノが売れる

なんてやつには大抵すでに腕のいい演出家が付いているのものだ。

 

 

 

演出なんて大それた、と思うかもしれないが

 

あなたが最近投稿しすぎたfacebookの投稿にすこし間を空けて、

次の投稿に「いいね」を増やそうとする行為すらも立派な演出なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

宣伝の話。

 

 

 

 

おれにとってのレッドツェッペリンや、ジミヘンはとても分かりにくかった。

 

 東野幸治カットの中学生だったおれの感想はといえば

 

  

 

なんか音もショボいし、英語よくわらんし、全体的に地味な音楽だな。ほじほじ。

 

 

  

こんなもんだったと記憶する。

 

しかもどちらも歌い方にクセがあって、好きじゃないなと感じた。

 

 

 

頑張って聴くほど音楽に困ってなかったから、放っておいた。

 

小室おるし、くらいのもんだ。

 

 

 

しばらくしてまた何かの雑誌や、口コミや、好きなミュージシャンのインタビューなどでその名前を目にする。

 

宣伝だ。

 

 

 

やっぱすごい人なんかな。。

理解出来んおれがおかしいんかな。。

 

 

  

また聴いてみる。

 

わからん。。

 

 

 

宣伝。

 

またなんとなく聴いてみる。

 

 

 

 

それをけっこう長い間

 

繰り返していた。

 

 

 

 

話の流れからいうまでもないが、今ではフェリバリットな二組だ。

 

 

 

「理解出来んおれがおかしいんかな」などと思わせたなら

それが宣伝の最大のポテンシャルかもしれない。

 

 

 

聴かれるチャンスを増やすこと。

聴かせるトラップを仕掛けること。

 

 

 

これが宣伝。

 

 

 

金がないなら金がないなりにやれることはあるように思う。

 

ハッタリをかますのが一番いい。

 

地位も金もない若手ラッパーの勝ち上がり方は大体これだ。

 

 

ちなみに実力が伴ってないと効力は、ない。

 

 

 

まぁ半分冗談だが、それよりも自分自身に照れないこと。

 

そっちの方がよっぽど重要であるように思う。

 

 

 

 

宣伝と演出が伴ったとき、始めて評価の土台が整う。

 

間違ってはいけないが、そこからスタートする。

純粋な”評価”の時間が。

 

 

あとは作品の良し悪しとしかいいようがないが

スタートラインにもつかないでうだうだ言うやつを散々見てきたし、

おれも一人になってからはそうだった。

 

 

 

 

 

 

以上音楽を聴いてもらうまでの話。

 

 

 

 

 

あとは知らん。

 

 

 

 

 

と言いたいところだが。

 

 

こうしてちゃんと金を出して聴いてもらったうえで、

好きじゃないというやつがいたらどうするか。

 

 

これがベストなのかはよくわからんが。

 

 

 

なるべく受け止めることだろう。

悔しいが。

 

 

受け入れる必要はないと思う。

 

ただ受け止める。

 

 

 

万人に受けることなんてまずありえない、が前提だが。

 

 

 

自分が自分自身の作品をほんとに心から良いと思ってるかどうか。

自分の心に嘘をついてないかだけを、じっくり精査するタイミングにする。

 

 

それくらいでいいんじゃないか。

 

 

 

ただそのあと、否定するやつをいちいち説得するために時間を費やすくらいなら、

新しく好いてくれる人間の分母を増やしていくほうが

よっぽど自分のためになる気がする。

 

 

 

できる限りの演出と宣伝が行えたのなら、

 

阿呆に擦り寄るのはそこまででいい。