月に二、三度ほど近所の餃子の王将に通っている。

頼むのは決まってレバニラ+何か。

 

 

かというおれはレバーが大嫌いである。

 

 

一時期の体調不良による不安思考から、頑張ってそれを食いに行っている。

 

王将のは味が濃く、なんとかそれが食べれるからだ。

 

 

 

 

王将に行くのにはもう一つ理由がある。

 

学生の頃、熊本の王将でバイトしていたため、その空気が懐かしいからだ。

同じ匂いがする。

 

 

賄い目当ての安月給バイトであったが、それなりに楽しく働いていた。

 

暴走族上がりの店長と取っ組み合いの喧嘩になり辞めることになるのだが、なんでそうなったのか、いまでは理由をほとんど覚えていない。

 

 

いまより感情がむき出しだったのかもしれない。

 

 

 

人に感情をぶつけることは、時に必要ではあるが、感情がむき出しの人間の末路は孤独だ。

 

 

おれを殴った友達はおれから離れていったし、

おれが殴った友達もおれから離れていった。

 

 

 

離れる、といっても友達同士の喧嘩だったので、そのまま友達には変わりないのだが。

  

お互い”距離を覚えた”という方が正しいのかもしれない。

 

 

 

少し寂しい気持ちになったものだ。

 

 

 

ありのままの感情をさらけ出すほど、人間なんて卑劣でだらしがなく、とても他の人間となんて居られないなと最近は思う。

 

おれならついて行けないし、おれがそれをやったら誰もついて来れないだろうと思う。

 

 

全ての要望に対し面倒臭いと答えるし、自分の気持ちいいことしかしたくない。

働きたくないし、しかしこの世のルールではお金がないとメシが食えないから、

お前が稼いで金をくれと言うかもしれない。 

 

 

そんなやつからは人は離れていく。

 

 

 

どこかで我慢して人と居る安堵を選ぶか、ありのまま生きる開放感と孤独を取るか。

 

理性を持った人間として生きるか、本能に忠実な動物として生きるか。

 

 

 

まさしくワールド・イズ・マイン(漫画)のモンちゃんである。

 

 

 

 

おれはある時、音楽の場だけでそれを発散すると決めた。

その時近くに居た人がとても献身的な人であったため、ぶつけきった末、そうすることに決めたのだ。

 

  

 

おれにとっての道徳の時間だった。 

 

 

 

わがままはほどほどにし、気遣いや思いやりをキャッチボールする面白みを知れた。

普段酒は飲まないし、理性を欠くような状況に落ちいることのないおれは、ドラムの場だけでそれを解消していった。

 

 

 

女の人にはちょっと分からないかもしれないが、男には男ならではの攻撃性というのがある。

 

男の子を育てたことのある親御さんならなんとなくピンと来るかもしれないが、小さな男の子が家の中をめちゃくちゃにしてしまったり、自作の剣で思い切りぶったたいてくるのは、その抑制が効かないからだ。

 

ヤンキー漫画を読んで解消するやつもいるだろう。

 

 

感情の抑制が効かない”わがままさ”もある種暴力だ。

こちらは女性に多い気がする。

 

 

 

 

 

わかってはいるが、それでも相手によっては今でも感情的になってしまう。

 

仕方がない場合もあるのだが、だいたいは凄く後悔する。

 

 

 

今もそう。

 

 

 

思うがままに発言し、行動する生き方を単に悪いものとは思わないが、残酷な事件を知った時の嫌悪とそれが、どこか近しいものだと感じてしまうからだ。

 

問題は起こるべくして起こるから、なるべくは冷静に、お互いを不用意に傷つけあったりせず解決に向かいたい。

 

 

 

しかし生きることは何かに命の衝動をぶつけていくことでもある。

 

その対象が、音楽なのか、絵を描くことなのか、人によってはスポーツだったりもするだろう。

 

 

 

結局。

 

 

 

感情をコントロールしながら、 人以外の何かに衝動をぶつけることでしか、

ひとは人と居ることができない。

 

 

 

ぶつける対象を誤った時、それは脆くも崩れてしまう尊いものなのだ。