三日間滞在しヨネくんは帰って行った。

 

 

ヨネくんはイラストレーターであり、おれが熊本に住んでた二、三年前に知り合った。

 

最初に存在を知ったのは、その当時行きつけていた熊本の人間交差点喫茶「PAVAO」の、蚤の市のフライヤーだったと記憶する。

 

 

ファンシーでグラフィカル、かつ繊細なタッチで見やすいフライヤーは物凄く印象に残った。

 

 

 

その後、なんとなしに知り合いになるも、今日に至るまでにしっかりと話したのは一回くらいであった。

 

たったの一回であったが、年も近いし、雰囲気的にだが、なんとなく気が合うだろうなと思っていた。

熊本で知り合った、数少ない、自分が興味を惹かれる人間の一人であった。

 

 

 

来年開催予定の個展の場所をリサーチしに来ていたらしいが、いいところが見つかったらしい。

 

よかった。

 

 

 

あまり遊ぶような時間はなかったが、夜、ヨネくんが持ち歩いてる今までの作品集を見せてもらっている時、あらためて凄い絵を描く人だなと思った。

 

 

 

 

おれもおれの作品を見せた。

 

 

いいクリエイターに作品を見せると、自分の作ったものの真価がよく分かる。

それは別に見せた相手が、良いとか悪いとか何も言わなくても、自分が気が付いてしまうのだ。

 

 

 

おれは自分のホームページを作り直すことにした。

 

 

ライブで、人前で歌って初めてその曲が本当に良いのかどうか分かるのと一緒だ。

 

経験上、一番身になる。 

 

 

 

自分が尊敬できることをセンス良く、充分に”やってしまってる相手”に対し、自分のやっていることを提示するだけ。

 

そうするだけで自分を客観視出来るし、さらに先が見える。

 

 

批評なんてのは二流の仕事だ。

 

 

 

 

ごちゃごちゃ言わんと背中で語れということである。

 

そんなことをあらためて確信した。

 

 

 

 

ちなみにこちらがそのヨネくんのホームページである。

 

yone.in

 

 

随時お仕事は募集中らしいので、見て興味もった人がいたら是非連絡を取ってみるといい。

 

 

きっといい仕事をしてくれると思う。

 

 

 

 

急遽、遠方からの友人がウチに泊まりたいとのことで、朝っぱらから掃除をしている。

 

 普段やらないからけっこう楽しい。

 

 

 

一つ。

 

この歳まで生きて分かったことがある。

 

 

おれはけっこうな粗悪な環境でも、普通に生活が出来てしまうらしい。

 

 

つまりはホコリだったり、食べ物だったり、動物に対してのアレルギーも持っていないし、汚さや狭さやなどに対しても精神的な耐久があるため、そんなに何も気にならないのだ。

 

 

つまりはウチは綺麗ではない。

 

そして狭い。

 

 

 

というわけで、ちょっと人が遊びに来るくらいなら気にしないのだが、ガッツリ泊まりに来る来客時には、出来るだけ事前に掃除をするようにしている。

 

 

そんな状況にでもならない限り、部屋のことが放ったらかしの自分にとって、部屋の掃除はスペシャルイベントであり、けっこう楽しかったりもするのだ。

 

 

 

 

もう一つ。

 

 

おれは人の家に泊まりに行くのはあまり好きではないが、人が泊まりに来る分には、まったく嫌な気持ちがない。

 

神経質そうに思われることが多いのだが、実は人が自分の部屋にいても、そんなに気にならない。 

というか気にしない。

 

  

若い頃、見ず知らずの外国人達とルームシェアをしていた経験があるからかもしれない。

言葉も文化も異なる人間たちで、数ヶ月とか、一年とか暮らしてたから、身勝手な動きなんぞにいちいち構っていられない。

というか構ってても仕方ないし、そうなると、お互いつまらなくなることを知っている。

 

 

もともとそんな性格なのか、そっからなのかは分からないが、やらなきゃいけないことがあれば勝手にやるし、あまり自分の環境を守りたいという意識もないので、勝手に部屋のモノを触ろうが、例え勝手に食材を使って料理を始めたとしても、まったく気にならない。

 

別に遅く帰ってこようがおれが眠ければ勝手に寝るし、逆に相手がうちでグータラしてようが全然気にならない。

 

 

実際、以前バンドの相方が夏休みごとにワンルームの我が家に一ヶ月くらいステイするような時期があったのだが、喧嘩することもなく、けっこう楽しく過ごしたものだ。

 

 

相手にもそれを伝えるようにしているので、お互い楽に過ごせる。

おれのフィールドにはほとんどルールがないので、とても楽なのだと思う。

 

 

勝手にものを持って帰るとかしなければおれは特に気にしない。

 

 

 

 

しかし。

 

他の誰かの家ともなるとそれは違ってくる。

 

おれのような雑多な感覚の人間もいるかもしれないが、経験上、みな自分のフィールドにそれなりにルールを構えており、それを崩されるとイライラしてしまう人が多いように思う。

 

縄張り意識とでもいうのだろうか。

 

「あぁそれ触らんで!」

「その部屋には入らんで!」

 

とか突然言われてもさ、それだったら事前に言うとか、張り紙でもしとけよと思うのね。

 

 

お互いイライラしてしまう。

 

 

ま、その場所のイニシアチブは、そこに住んでる人が持つのは当然なので、郷に入れば郷に従うじゃないのだが、そこで変にルールに縛られるくらいなら、うちに来いよ、と思ってしまうのだ。

 

 

部屋が綺麗過ぎるのも気を使うし、うちなんてちょうどいい汚さだと思うのだが。

 

 

 

 

結果、人の家には極力泊まりたくないし、ウチなら大歓迎。

 

 

ということで絶賛掃除中である。

 

 

 

 

 

 

 

月に二、三度ほど近所の餃子の王将に通っている。

頼むのは決まってレバニラ+何か。

 

 

かというおれはレバーが大嫌いである。

 

 

一時期の体調不良による不安思考から、頑張ってそれを食いに行っている。

 

王将のは味が濃く、なんとかそれが食べれるからだ。

 

 

 

 

王将に行くのにはもう一つ理由がある。

 

学生の頃、熊本の王将でバイトしていたため、その空気が懐かしいからだ。

同じ匂いがする。

 

 

賄い目当ての安月給バイトであったが、それなりに楽しく働いていた。

 

暴走族上がりの店長と取っ組み合いの喧嘩になり辞めることになるのだが、なんでそうなったのか、いまでは理由をほとんど覚えていない。

 

 

いまより感情がむき出しだったのかもしれない。

 

 

 

人に感情をぶつけることは、時に必要ではあるが、感情がむき出しの人間の末路は孤独だ。

 

 

おれを殴った友達はおれから離れていったし、

おれが殴った友達もおれから離れていった。

 

 

 

離れる、といっても友達同士の喧嘩だったので、そのまま友達には変わりないのだが。

  

お互い”距離を覚えた”という方が正しいのかもしれない。

 

 

 

少し寂しい気持ちになったものだ。

 

 

 

ありのままの感情をさらけ出すほど、人間なんて卑劣でだらしがなく、とても他の人間となんて居られないなと最近は思う。

 

おれならついて行けないし、おれがそれをやったら誰もついて来れないだろうと思う。

 

 

全ての要望に対し面倒臭いと答えるし、自分の気持ちいいことしかしたくない。

働きたくないし、しかしこの世のルールではお金がないとメシが食えないから、

お前が稼いで金をくれと言うかもしれない。 

 

 

そんなやつからは人は離れていく。

 

 

 

どこかで我慢して人と居る安堵を選ぶか、ありのまま生きる開放感と孤独を取るか。

 

理性を持った人間として生きるか、本能に忠実な動物として生きるか。

 

 

 

まさしくワールド・イズ・マイン(漫画)のモンちゃんである。

 

 

 

 

おれはある時、音楽の場だけでそれを発散すると決めた。

その時近くに居た人がとても献身的な人であったため、ぶつけきった末、そうすることに決めたのだ。

 

  

 

おれにとっての道徳の時間だった。 

 

 

 

わがままはほどほどにし、気遣いや思いやりをキャッチボールする面白みを知れた。

普段酒は飲まないし、理性を欠くような状況に落ちいることのないおれは、ドラムの場だけでそれを解消していった。

 

 

 

女の人にはちょっと分からないかもしれないが、男には男ならではの攻撃性というのがある。

 

男の子を育てたことのある親御さんならなんとなくピンと来るかもしれないが、小さな男の子が家の中をめちゃくちゃにしてしまったり、自作の剣で思い切りぶったたいてくるのは、その抑制が効かないからだ。

 

ヤンキー漫画を読んで解消するやつもいるだろう。

 

 

感情の抑制が効かない”わがままさ”もある種暴力だ。

こちらは女性に多い気がする。

 

 

 

 

 

わかってはいるが、それでも相手によっては今でも感情的になってしまう。

 

仕方がない場合もあるのだが、だいたいは凄く後悔する。

 

 

 

今もそう。

 

 

 

思うがままに発言し、行動する生き方を単に悪いものとは思わないが、残酷な事件を知った時の嫌悪とそれが、どこか近しいものだと感じてしまうからだ。

 

問題は起こるべくして起こるから、なるべくは冷静に、お互いを不用意に傷つけあったりせず解決に向かいたい。

 

 

 

しかし生きることは何かに命の衝動をぶつけていくことでもある。

 

その対象が、音楽なのか、絵を描くことなのか、人によってはスポーツだったりもするだろう。

 

 

 

結局。

 

 

 

感情をコントロールしながら、 人以外の何かに衝動をぶつけることでしか、

ひとは人と居ることができない。

 

 

 

ぶつける対象を誤った時、それは脆くも崩れてしまう尊いものなのだ。

 

 

 

 

 

 

友達がFBでシェアしていた動画がなんとも興味深かった。

内容はフィンランドはなぜ、世界で一番学力の高い国になれたのか。

 

 

ざっくりお伝えすると、「宿題」を無くしたらしい。

 

 

もともと授業時間の少ないフィンランドにおいて、宿題すらも撤去。

結果、世界一子供の学力の高い国になった。

マイケル・ムーアが取材していたから、馬鹿みたいな本当の話なのだろう。 

 

 

動画には、実際のフィンランドの学校教師がたくさん出てくる。

その様子を見る限り、決して「宿題」を無くしたから、という理由だけじゃないのは伺い知れる。

 

おれの中のフィンランドのイメージは ”北欧メタル” か ”かもめ食堂” の二択なのだが、おそらく、国自体がとても人間の感情に則した作りになっているのだろう。

 

幸福実感度の高い国、というのは昔どっかのインターネットサイトでも話題になっていたが、それ自体なかなか面白い数値だし、日本が低いのはなんとなくわかる。

 

 

”学校ビジネス”についての話が最後にちょろっと出てくるが、驚くことにフィンランドには私立が無いらしい。

 

全て公立。

さらに驚いたのが、学校ごとに偏差値を出していない。

 

つまりは、あの高校が頭いいとか、あそこは馬鹿しか行かない、といった日本では当たり前ことすら”存在していない”らしい。

 

 

近所の高校に通えばいいんじゃない?

 

なんて教師たちが涼しい顔で語っていた。

 

 

 

何度も言うが、結果世界一だ。

頭の固い日本の教育関係のお偉いさんたちは、根本から考えを改め無いといけないのかもしれない。 

 

 

 

勉学については一つだけ思うことがある。 

「宿題」がない、ということにも繋がるのだが、”目的のための手段” が ”勉学” であるということ。

 

 

何かになりたいからそのための勉強をする。

当たり前のことなのに、この宿題というものはそれに対しまったく意味を成していない。

 

一部の生徒においては、自分自身の目的と、必須科目から出される「宿題」が一致することもあるだろうがそれは稀だろう。

 

 

いい大学に入りたいから勉強する?

それは目的にはならない。

いい大学に入って何を勉強して、何になりたいか。

安定を求めて東大に入っても終身雇用なんてすでに死語同然だ。

 

 

 

スタジオエンジニアになりたいなら、機材を学べばいいし、プッシャーになりたいならギャングスタ映画を見まくらなきゃならない。

 

ま、それは半分冗談やが。

 

 

 

あとは全てに人間の良心があればいい。

それが多分一番重要。

 

 

 

態度の悪いスーパーのレジ打ちは、多分レジを打つのが嫌いだし、興味ないのだ。

じゃあレジ打ちに興味あるやつがいるのか?と言われそうやが、嫌いじゃないやつはいると思う。

 

 

そういうやつがやればいい。

マイナスの空気がマイナスの空気を生むだけ。

 

 

そういう”やらされてる感”を出されるのが個人的には一番イラッとくる。 

 

 

 

学校の時間が少なく、遊ぶ時間が多いのはいい。

親は大変だろうが、国自体の治安がいいからある程度ほっとけるのだろう。

日本やアメリカでは少し難しそうだ。

 

 

すぐに何かが変わるわけではないが、まったく別の側面から物事を見ていくのは気分も晴れるし、なかなかいいことである。

 

 

そんな、良かった動画の話。

 

 

  

 

 

自分が特別な人間なんじゃねーかっていう気持ちは20代で終わった。

その点、おれは凄く楽になったけどね。

 

別に特別だろうが普通だろうが、そのまま出していけばいいんだから。

 

そのまま出そうと思ったら人間どんだけでも出る。

 

 

枯渇しない。

 

 

 

生まれて初めてトーストに納豆を乗せた。

 

おれの体重が500g減ったことに気付いた友達から、健康に気を使うよう、それをススめられたからだ。

もっと痩せそうやがありがたい。

 

 

32年生きて来ても、まだまだ世の中には未体験なものが沢山あるらしい。

 

 

味はパンに納豆が乗った味だった。

 

 

 

〜〜〜〜

 

 

 

おれは「寸止め海峡(仮題)」のDVDを手にしている。

 

 

このタイトルだけでそれが何なのか、ピンと来た人は当時「遺書」や「松本」を読み漁っていた凄く記憶のいい人か、よほどのお笑い好きだろうと思う。

 

 

寸止め海峡はその昔、松本人志が行なった入場料一万円ライブの映像作品で、VHSにはなっているが、未だにDVD化はされていない。

 

 

おれが松本人志を好きだと知った友達が、わざわざDVDに焼いてくれたのだ。

 

 

 

見たのは高校生時分だったから、だいたいやが、15年ぶりだ。

 

当時の記憶では、正直おもろかったっけなー、くらい。

それより、頭の中が「?」になったのを覚えている。

 

 

 

今見たら絶対面白いよ。

とススめられた。

 

 

 

 

あの時ピンと来なかった細かい演出やシュールさや笑いがグサグサと突き刺さる。

 

 

 

まじかよ。

 

 

 

めちゃくちゃ面白い。

ひっぱる男からいきなり凄い。 

 

 

 

単なるノスタルジーじゃなく。

 

新鮮に面白い。

 

 

涙が出た。

笑いなのに。

 

 

15年を経て、やっと追いついたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

高校生のおれは、ダウンタウン

特に松本人志に夢中であった。

 

”特に” と書いたのは、もちろんごっつもガキも、ダウンタウン関連の番組は好きでほとんど全部と言っていいくらい見ていたのだが、特段ハマったのは松本人志単独の著書だった。

 

 

特に最も衝撃を受けた本がある。

 

 

「愛」というタイトルの著書だ。

 

 

この本は多分「遺書」や「松本」の延長線上で手に入れたものと記憶しているが、それを読んだ時の衝撃といったらなかった。

 

 

 

これは。

 

おれのための本だ。

 

 

 

そんなことを思ったほどだ。

 

 

どれくらい好きだったかというと、文庫本を毎日学生カバンに入れては持ち歩き、学校終わってもスボンの後ろポケットに入れては持ち歩き、事あるごとに本をかっぴらき読み耽っていた。

 

 

悔しいことがあると読み。

楽しいことがあると読んだ。

 

 

結果、本がボロボロになりすぎて、一、二度それを買い換えたほどだ。

 

 

話題になった「遺書」や「松本」よりもグッとシリアスな内容で、一つ一つのトピック、というかお題を深く掘り下げていくような本である。

 

 

 

死について。

 

とかそんな感じ。

 

 

 

おれの性格の一部は、確実にその本によって育てられたし、むしろ救われていた。

 

 

ボロボロになった本を買い換えるなんて行為は、もう出来ないかもしれない。

 

 

大人になり、本くらいなら自由に買えるようになったこともあるし、ひとつの物事への没入感はある種、若者の一つの特権だ。

 

 

未だにそれがうちの本棚にあるから不思議に思う。

好きすぎた故、もう読まないかもしれない。

 

 

ただ持ち続けるのだろうとは思う。

物に執着心のない自分にも、いくつかそういうものがある。

 

 

 

これは、いまでも松本人志が映画を作れば真っ先に映画館に足を運ぶ気持ちと、一緒だ。

 

 

 

 

正直。

 

  

松本人志の作るショートコントや、ビジュアルバムのようなショートムービーは最高だと思っているのだが、映画という枠で見るとその才覚は奮っていないように思う。

 

 

単純に、面白くない。

 

 

 

それが分かってるのになぜだろうか。

 

 

出来れば公開と同時に。

誰よりも早く見たい。

 

 

 

極論。

別につまらなくてもいいのである。

全部観ておきたいだけ。

 

 

 

凄くがっかりしたとしても、迷わず次も行く。

 

 

 

つまりはただのファンだってことだ。

 

ミュージシャン相手にはいない。 

 

 

 

作品の出来がどうであれ、ただただそれを見守りたいと思えるのは、おれにとっては松本人志くらいだ。

 

 

 

15年ぶりに寸止め海峡を見て、 

またそんな気持ちを確認した。

 

 

 

そしてこれからも期待し続けていくんだろうと思う。