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新たにブログを始めて、初めてこんなに休んだ。
単に書く気がしなかったのだ。
色々起こりすぎると、その出来事と対峙するだけである意味満足してしまい、なかなか書く気にならない。
まぁルーティーンで書いているわけではないので、こんなゆるい感じでいいのだが。
私のスタンスとしては、人生の面白味を文章に残すというより、人生における”しこり”のようなものをドロドロに溶かすために文章を書いている。
それはある意味、音楽を作る動機と同じかもしれない。
音楽にはもう少し面白味を孕めるが、いい記憶はその場の高揚感を頂点とし落ちて行ってしまうので、後のノスタルジーの憩いの場になるのは音楽や文章の必然である。
瞬間には勝てない。
二次的喜びや追憶、迷走の記録。
行きつけのコーヒーショップでそれらを見つめている。
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パッとこれを見て。
トラウトマスクレプリカだと。
認識してもらえないと寂しくなるのは。
要は。
おれはオタクなのだな。
納得。
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舟と舟レコーズのメイン(?)キャラクターを描いた。
とくに名前は、無い。
無心に色を塗っていると、とても心が落ち着く。
別に絵が描きたいわけではなく、色を塗りたいがためにその対象を描いている気がする。
おもいっきりアホでシュールなものか、幾何学的な雰囲気のものがタイプである。
〜〜〜〜〜
スタンリーキューブリック作。
「2001年宇宙の旅」を観て、どうしようもない心模様になっている。
途中から胸の鼓動が収まらなかった。
SF映画の金字塔と言われる本作だが、SF映画を好んで見ることがないので、なんとなくスルーしていた。
その日の目的の映画。
羊たちの沈黙が全借りされており、シャイニングと迷った結果、なんとなくこっちを借りた。
見終わったあと。
一人で唸った。
凄い映画を選んでしまったと。
なんて寂しい気持ちになる映画なのだろう。
一人でいるのがとても怖い。
ラストの意味がわからない、という話はたまに耳にしていたのだが、感覚の視覚化であり、説明は要らないのだろう。
意味不明という”意味”を持たせたのだと理解。
あれが狙って作られたのであれば、キューブリックはキマっている。
ラストも含めて、あまり文章で解説するような映画じゃないと思う。
何度も書くが。
すごい映画。
観た人ともっと分かち合いたくなる。
分かり合えないその続きを。
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予告通り。
ホームページをリニューアルした。
なかなか見やすくなったかと思う。
気になる画像は中学一年生の頃のおれであり、これくらい剥き出しで書いていくよ(ブログを)という宣言である。
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三日間滞在しヨネくんは帰って行った。
ヨネくんはイラストレーターであり、おれが熊本に住んでた二、三年前に知り合った。
最初に存在を知ったのは、その当時行きつけていた熊本の人間交差点喫茶「PAVAO」の、蚤の市のフライヤーだったと記憶する。
ファンシーでグラフィカル、かつ繊細なタッチで見やすいフライヤーは物凄く印象に残った。
その後、なんとなしに知り合いになるも、今日に至るまでにしっかりと話したのは一回くらいであった。
たったの一回であったが、年も近いし、雰囲気的にだが、なんとなく気が合うだろうなと思っていた。
熊本で知り合った、数少ない、自分が興味を惹かれる人間の一人であった。
来年開催予定の個展の場所をリサーチしに来ていたらしいが、いいところが見つかったらしい。
よかった。
あまり遊ぶような時間はなかったが、夜、ヨネくんが持ち歩いてる今までの作品集を見せてもらっている時、あらためて凄い絵を描く人だなと思った。
おれもおれの作品を見せた。
いいクリエイターに作品を見せると、自分の作ったものの真価がよく分かる。
それは別に見せた相手が、良いとか悪いとか何も言わなくても、自分が気が付いてしまうのだ。
おれは自分のホームページを作り直すことにした。
ライブで、人前で歌って初めてその曲が本当に良いのかどうか分かるのと一緒だ。
経験上、一番身になる。
自分が尊敬できることをセンス良く、充分に”やってしまってる相手”に対し、自分のやっていることを提示するだけ。
そうするだけで自分を客観視出来るし、さらに先が見える。
批評なんてのは二流の仕事だ。
ごちゃごちゃ言わんと背中で語れということである。
そんなことをあらためて確信した。
ちなみにこちらがそのヨネくんのホームページである。
随時お仕事は募集中らしいので、見て興味もった人がいたら是非連絡を取ってみるといい。
きっといい仕事をしてくれると思う。
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急遽、遠方からの友人がウチに泊まりたいとのことで、朝っぱらから掃除をしている。
普段やらないからけっこう楽しい。
一つ。
この歳まで生きて分かったことがある。
おれはけっこうな粗悪な環境でも、普通に生活が出来てしまうらしい。
つまりはホコリだったり、食べ物だったり、動物に対してのアレルギーも持っていないし、汚さや狭さやなどに対しても精神的な耐久があるため、そんなに何も気にならないのだ。
つまりはウチは綺麗ではない。
そして狭い。
というわけで、ちょっと人が遊びに来るくらいなら気にしないのだが、ガッツリ泊まりに来る来客時には、出来るだけ事前に掃除をするようにしている。
そんな状況にでもならない限り、部屋のことが放ったらかしの自分にとって、部屋の掃除はスペシャルイベントであり、けっこう楽しかったりもするのだ。
もう一つ。
おれは人の家に泊まりに行くのはあまり好きではないが、人が泊まりに来る分には、まったく嫌な気持ちがない。
神経質そうに思われることが多いのだが、実は人が自分の部屋にいても、そんなに気にならない。
というか気にしない。
若い頃、見ず知らずの外国人達とルームシェアをしていた経験があるからかもしれない。
言葉も文化も異なる人間たちで、数ヶ月とか、一年とか暮らしてたから、身勝手な動きなんぞにいちいち構っていられない。
というか構ってても仕方ないし、そうなると、お互いつまらなくなることを知っている。
もともとそんな性格なのか、そっからなのかは分からないが、やらなきゃいけないことがあれば勝手にやるし、あまり自分の環境を守りたいという意識もないので、勝手に部屋のモノを触ろうが、例え勝手に食材を使って料理を始めたとしても、まったく気にならない。
別に遅く帰ってこようがおれが眠ければ勝手に寝るし、逆に相手がうちでグータラしてようが全然気にならない。
実際、以前バンドの相方が夏休みごとにワンルームの我が家に一ヶ月くらいステイするような時期があったのだが、喧嘩することもなく、けっこう楽しく過ごしたものだ。
相手にもそれを伝えるようにしているので、お互い楽に過ごせる。
おれのフィールドにはほとんどルールがないので、とても楽なのだと思う。
勝手にものを持って帰るとかしなければおれは特に気にしない。
しかし。
他の誰かの家ともなるとそれは違ってくる。
おれのような雑多な感覚の人間もいるかもしれないが、経験上、みな自分のフィールドにそれなりにルールを構えており、それを崩されるとイライラしてしまう人が多いように思う。
縄張り意識とでもいうのだろうか。
「あぁそれ触らんで!」
「その部屋には入らんで!」
とか突然言われてもさ、それだったら事前に言うとか、張り紙でもしとけよと思うのね。
お互いイライラしてしまう。
ま、その場所のイニシアチブは、そこに住んでる人が持つのは当然なので、郷に入れば郷に従うじゃないのだが、そこで変にルールに縛られるくらいなら、うちに来いよ、と思ってしまうのだ。
部屋が綺麗過ぎるのも気を使うし、うちなんてちょうどいい汚さだと思うのだが。
結果、人の家には極力泊まりたくないし、ウチなら大歓迎。
ということで絶賛掃除中である。
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月に二、三度ほど近所の餃子の王将に通っている。
頼むのは決まってレバニラ+何か。
かというおれはレバーが大嫌いである。
一時期の体調不良による不安思考から、頑張ってそれを食いに行っている。
王将のは味が濃く、なんとかそれが食べれるからだ。
王将に行くのにはもう一つ理由がある。
学生の頃、熊本の王将でバイトしていたため、その空気が懐かしいからだ。
同じ匂いがする。
賄い目当ての安月給バイトであったが、それなりに楽しく働いていた。
暴走族上がりの店長と取っ組み合いの喧嘩になり辞めることになるのだが、なんでそうなったのか、いまでは理由をほとんど覚えていない。
いまより感情がむき出しだったのかもしれない。
人に感情をぶつけることは、時に必要ではあるが、感情がむき出しの人間の末路は孤独だ。
おれを殴った友達はおれから離れていったし、
おれが殴った友達もおれから離れていった。
離れる、といっても友達同士の喧嘩だったので、そのまま友達には変わりないのだが。
お互い”距離を覚えた”という方が正しいのかもしれない。
少し寂しい気持ちになったものだ。
ありのままの感情をさらけ出すほど、人間なんて卑劣でだらしがなく、とても他の人間となんて居られないなと最近は思う。
おれならついて行けないし、おれがそれをやったら誰もついて来れないだろうと思う。
全ての要望に対し面倒臭いと答えるし、自分の気持ちいいことしかしたくない。
働きたくないし、しかしこの世のルールではお金がないとメシが食えないから、
お前が稼いで金をくれと言うかもしれない。
そんなやつからは人は離れていく。
どこかで我慢して人と居る安堵を選ぶか、ありのまま生きる開放感と孤独を取るか。
理性を持った人間として生きるか、本能に忠実な動物として生きるか。
まさしくワールド・イズ・マイン(漫画)のモンちゃんである。
おれはある時、音楽の場だけでそれを発散すると決めた。
その時近くに居た人がとても献身的な人であったため、ぶつけきった末、そうすることに決めたのだ。
おれにとっての道徳の時間だった。
わがままはほどほどにし、気遣いや思いやりをキャッチボールする面白みを知れた。
普段酒は飲まないし、理性を欠くような状況に落ちいることのないおれは、ドラムの場だけでそれを解消していった。
女の人にはちょっと分からないかもしれないが、男には男ならではの攻撃性というのがある。
男の子を育てたことのある親御さんならなんとなくピンと来るかもしれないが、小さな男の子が家の中をめちゃくちゃにしてしまったり、自作の剣で思い切りぶったたいてくるのは、その抑制が効かないからだ。
ヤンキー漫画を読んで解消するやつもいるだろう。
感情の抑制が効かない”わがままさ”もある種暴力だ。
こちらは女性に多い気がする。
わかってはいるが、それでも相手によっては今でも感情的になってしまう。
仕方がない場合もあるのだが、だいたいは凄く後悔する。
今もそう。
思うがままに発言し、行動する生き方を単に悪いものとは思わないが、残酷な事件を知った時の嫌悪とそれが、どこか近しいものだと感じてしまうからだ。
問題は起こるべくして起こるから、なるべくは冷静に、お互いを不用意に傷つけあったりせず解決に向かいたい。
しかし生きることは何かに命の衝動をぶつけていくことでもある。
その対象が、音楽なのか、絵を描くことなのか、人によってはスポーツだったりもするだろう。
結局。
感情をコントロールしながら、 人以外の何かに衝動をぶつけることでしか、
ひとは人と居ることができない。
ぶつける対象を誤った時、それは脆くも崩れてしまう尊いものなのだ。